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其の四
「だんな様」
格子戸を引いて中へ飛び込んでも、与助の返事はなかった。
しかし、裏の勝手口から入った宗七が、台所の甕の水をすくっていた与助とばったり鉢合わせた。
「…………宗七。何故おまえがここに。戸田屋へ行ったんじゃないのか」
「……長次に聞きました。与助さんは私の恩人です。それを見ないふりなどできません。どうして、おつぎを迎えにいかないのですか。先代の家にいるとわかっているのに」
おつぎは先代双葉屋の家に居る。長次はそれを知らなかった。どうして宗七はそれを先に云わないのだろう。
「そんならだんな様、おいらが先に行きます、おかみさん迎えに」
「よしなさい、長次。おつぎに云われたのだろう、あの人じゃないと帰らないと」
与助の細長い顔の中で、唇が引きつった。
泣いたようにも見えたが、笑ったようにも見えた。
「浅次郎を連れて出て行って、どの口が云うんだね。あれは私を見限って浅次郎を選んだんだろうよ」
「未だそんなことを云って」
宗七の端正な顔が強張った。その手には、台所に転がっていた空の飯櫃を握っている。
「どうして、こんなになるまで……。やり直しのきく人生だ。きっといいことがある、そう私に教えてくれたのはだんな様じゃありませんか。どんな苦労があっても、いつか終わりはくるからこそ、今は辛抱だ。じきに良いことがある。その良いことは、辛抱して生きているからこそ手に出来るものだ。そう云って、一緒におっかさんの墓参りに行ってくれたのはだんな様です。あの言い聞かせは私への同情での嘘ですか」
長次には与助に何とも云ってみることは出来ない。ただ包みを抱いて、家の柱にしがみついていた。
「おつぎだって色んな思いを抱えていても、ずっとだんな様だけを信じて待っているんです。隠居したおとっつぁんを取るか、おつぎを取るか、簡単なことじゃありませんか」
「もうよしてくれ……」
与助が崩れ落ちるようにして座ったのを見て、長次ははっとして手の中の包みを思い出した。
長火鉢を掻き均してみたが、火種はとうに消えている。
湯を諦めて、長次は綺麗な湯飲みを探し出すと、水をくんで包みと一緒に差し出した。
「これは……?」
風呂敷をほどくと、竹の皮に包まれた握り飯と、香のものが与助の膝に転がりでてきた。
長次は竹の皮を剥くと、与助の手に握らせた。与助は嫌がるように顔を背けたが、ややあって握り飯に口をつける。
そのままむせるように、二個、三個と食べる与助の目が涙に濡れた。
「お咲お嬢さんからの、言伝があります。『私は未だ双葉屋さんのような苦労をしらず、おつぎさんの機転のおかげで幸せを掴むことが出来ましたが』」
宗七の顔が一瞬赤くなったが、宗七は渋みのあるその声で言葉を続けた。
「『奉公人は身内と同じだ、とおっかさんに云われて育ちました。宗七さんの御身内の、双葉屋さんやおつぎさん、長次も私の身内と思ってもよろしいでしょうか。おせっかいとは思われるでしょうが、毎日、夫婦鳩の絵馬を持って参内しています』と。その握り飯も、お咲お嬢さんが用意されたもので、私はそれを届けただけです」
与助は竹の皮についた米粒をじっと凝視していた。
「まだ……子どもは授かるだろうか……いや、この後に及んで……」
夫婦鳩は子宝祈願の小絵馬だ。あのお嬢さんが願うのなら、きっと叶ってくれるだろうと長次は思った。
宗七が、懐を探った。
「戸田屋は呉服問屋です。与助さんとおつぎの産着は自分が縫いたいと、お咲は云いました」
与助の手が、空になった包みを握った。しばらくして上がった与助の目が、まともに宗七の目を見た。
「そうか……おまえ……ほんとうにいい人を見つけたな」
いい人だ、いい人だ。歌うようにそう繰り返した与助は、さっきまでの与助とは違ってみえた。
頬を緩ませて、静かに笑っていた。
「すまなかったね、長次。おまえ一人に店を任せきりにするなんてね」
「いいえ、だんな様。おいらは平気でした」
与助は朝日に目を細めた。今までずっと差し込んでいたその光に、今気がついたような表情だった。宗七は、握り締めていた飯櫃を下ろして、敷居に腰掛けた。
「じゃあ、出かけてくるよ。長次、もう少し店を頼んだよ」
まるでここ何日も放ったらかしにしていたのが嘘のように、与助は云った。
いつもの取引先に出かけるように、表通りに歩き出した与助の足取りは軽かった。
――おかみさんが、帰ってくる。
長次が箒で入念に表を掃除している間に、宗七が米を買いに行き、長次の掃除が終わる頃には双葉屋だけ時間はずれの飯の匂いが漂いだしていた。
台所に入って、長次はしっかりと米櫃の中がいっぱいになっているのを確認した。
「七つ下がりの雨はしぶとくとも、いつかは止むときがくる。もう、皆に降った長雨は、止んだのじゃないか」
表戸の開く音がする。
お客かと、振り向いた長次の目に互いに寄り添うようにして立つ、おつぎと与助の姿が映った。
完
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