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アメリカで輝いている人 VOL.90

渋澤 健 さん ( Mr. Ken Shibusawa )
コモンズ投信 株式会社 会長
 
アメリカで活躍されている方々にインタビューをし、その人の活躍の場、内容、素顔を通じ
よりアメリカを知っていこうと企画された “Brilliant People” 輝いている人!

第90回目に登場いただくのは
コモンズ投信 株式会社 会長の 渋澤 健
さん です。

渋澤さんはコモンズ投信(株) 会長及びシブサワ・アンド・カンパニー(株) 代表取締役の他 (社)経済同友会 幹事・日本医療政策機構  副代表 理事など公的機関の理事などを歴任され多方面でご活躍されています。また、日本資本主義の父と評される渋澤栄一氏の孫の孫というお立場から渋澤栄一氏に関するものも含め著書多数。

−経歴−

1961 年  東京生まれ
1983 年  テキサス大学  BS Chemical Engineering 卒業
1984 年  (財)日本国際交流センター入社
1987 年  UCLA 大学 MBA 経営大学院卒業
1987 年  ファースト・ボストン証券会社( NY )入社、外国債券を担当
1988 年  JP モルガン銀行(東京)
1992 年  JP モルガン証券会社(東京)入社、国債を担当
1994 年  ゴールドマン・サックス証券会社(東京)入社、国内株式・デリバティブを担当
1996 年  ムーア・キャピタル・マネジメント( NY )入社、アジア時間帯トレーディングを担当
1997 年  東京駐在員事務所設立
2001 年  シブサワ・アンド・カンパニー株式会社を創業し、代表取締役に就任
2007 年  コモンズ株式会社を創業し代表取締役就任
2008 年  コモンズ投信へ改名し、会長に就任

(社)経済同友会 幹事
( 財 ) 渋沢栄一記念財団 理事
(財)日本国際交流センター 評議員
日本医療政策機構  副代表 理事
健康医療評価研究機構 理事
プラネット・ファイナンス・ジャパン 理事
日本ファンドレイジング協会 理事
チャリティ・プラットフォーム 評議員
ジャスト・ギビング・ジャパン 評議員
学校法人文京学園 評議員

著書:
『渋沢栄一とヘッジファンドから学ぶリスクマネジメント』 (日経BP社・ 2001 年)
『シブサワ・レター 日本再生への提言』 (実業之日本社・ 2004 年)
『これがオルタナティブ投資だ!』 (実業之日本社・ 2006 年)
『巨人・渋沢栄一の富を築く100の教え』 (講談社 BIZ ・ 2007 年)
『渋澤流 30 年長期投資のすすめ』 (角川 SSC 新書・ 2009 年)
『運用のプロが教える草食系投資』 (日本経済新聞出版社・ 2010 年)
『渋沢栄一 100の訓言』 (日本経済新聞出版社・ 2010 年)


何歳からアメリカで生活されているのですか

親の仕事の関係で 7 歳でアメリカに 行きました。

パブリックスクールに入れられたのですが 、 最初に登校した日は英語が分からずに親と先生が話していて、親と一緒に帰るのかと思っていたらそのまま自分だけ置いていかれちゃった(笑)

その頃のアメリカの学校は 勉強が 出来る子と出来ない子に分けられていて小学校 4 年生までは 出来ない子のクラスでした。英語で話すのを聞いて“ こういう事を言ってるんだろうなぁ ” と想像の世界にいました からね(笑)

小学校 2 年生の頃はニューヨーク その後 4 年生から大学まではテキサスにいました。 1970 年代のヒューストンはあまり日本人がいませんでした。学校でも同じ学年で日本人のクラスメイトは 1 人もいなかったですね。高校の時 韓国人が一人、 中国からの留学生が 一人いたくらいでオリエンタル自体が少なかった。

どんな田舎町に行ってもチャイニーズはありましたが、 日本食のレストランはありません。当時のヒューストンでは一軒であったという記憶です。

マイノリティになる条件というのを大学生になって、初めて知りました。テキサスにいた時は日本人が 1 人しかいませんから名誉白人になってしまうんです(笑) 異分子かもしれないけどマイノリティではない。 父がカリフォルニアに赴任になって、自分が帰省したときに初めてマイノリティになり感覚を覚えました 。 同人種が何人かいて 、ある程度固まるとマイノリティになるんだなと。

そんな事もあり少年時代は 自分は何人なんだろうといったアイデンティティクライシスをずっと抱えていました 。

日本を意識したのは何時頃からですか

生物学に関心があったので、大学はバイオメディカル エンジニアリングに進みましたが、 大学4年生になって自分はエンジニアには向いていない と気づきました(笑) 。 その頃、 アメリカ人の友人 3 人と 3 ヶ月間日本を旅する機会があ ったんです 。 日本には夏休み を利用して 1 週間程度 東京、鎌倉、箱根くらいには行った事はありましたが、その時は JRのレイルパスを使って広島、山形、日本海などにも行って地方社会を初めて体験しました。日本が元気だった80年代です 。

それまでは自分はアメリカに暮らすんだろうなぁと漠然と思っていましたが、日本に行って数ヶ月過ごし、山を越えると食文化や言葉までもが違うことに気がつき 、もっと知りたいと魅力を感じました。 大学を卒業しても、今でいえばフリーター 気分で帰国しました。

それがきっかけとなり日本に戻られ最初に勤められたのが 日本国際交流センター ですね。

JAPAN AS No.1 の時代でしたから 日本で仕事をやりたいと思ったこと、たまたま時代がそうだったから日本に帰ったというのが正しいかもしれません。それと当時アメリカのテレビ番組で 「ルーツ 」という番組が流行っていました。アフリカンアメリカンの先祖を探るドラマ ですが、ちょっと影響されたかもしれません。自分の知らない母国のことを体験してみたかったのです。

非政府、非営利団体である日本国際交流センターは議員交流など日米欧そしてアジアンのオピニオンリーダー同士の対話を促す 財団法人です。母方の叔父が設立したもので 、僕の日本社会のリハビリに丁度良いだろうと雇ってくれたんです(笑) その頃は日本語の理解力がまだまだでしたから電話で「お世話になっていますOOです」 と言われてもお世話をした覚えもないなぁなどと 不思議に 思っていました(笑)

アメリカでは日本語の勉強はしなかったのですか

海外赴任の日本人は、子供の教育を理由にして帰国を希望する例がほとんどですが、父は中途半端な語学教育は逆効果という理念でした。 アメリカに住んでいるんだから英語で良いという考え方で。 私自身も日本語教育は拒否していたので、正式な日本語教育は小学校2年生までです 。ですから 日本語の最高学歴は小学2年生となりますね(笑)

少年サンデーやマガジンは母の兄の伯父が船便で送ってくれていたので、日本語を読む能力はある程度維持できました。また、日本語で言われている事は分かっていましたが、なかなか自分からはしゃべれない。書くことは、まったく 駄目でしたが、丁度ワープロが出来た頃だったので、ローマ字を使って「 uraniwaniwa niwa niwatorigairu 」 などを変換して喜んでいました (笑)

その後またアメリカに MBA 取得に戻られていますね

UCLA 大学 MBA 経営大学院は私の入学前の年まで日本人は 3-4 人しかいなかったのに、私の年から 10人を超え、次の学年から 20 人くらいが入学してきました。 そこで、小学2年生以来、初めて日本人と一緒に学んで、 友人関係が出来ました。

そうそう、大学2年 (19 歳) の ときにUCSDサマースクールに行きましたが、寮生同士の自己紹介のときに 初対面の革ジャンを着 たメキシカンかと思った男性が I am from Japan とか言うので  “ えっ日本人? ”  と思ったのが上村 隆元さんとの最初の出会いです(笑) それから30年ぐらい経った今 “ えっ お医者さん ? ” という人物ですが、仲良くお付き合いしています。

ビジネススクールのためにアメリカに戻った時には何をやろうと 決めていったわけではないのですが、花形就職先はコンサルかインベストバンクでした。特に事業経験が豊富だったわけではないのでコンサルは無理だと思いましたが、インベストバンクなら何とかなるんじゃないかと思いました(笑)

殆どのビジネススクールの日本人の男性陣は企業派遣で来ているので、就職活動をしているのは僕と女性だけでした。女性たちはとっても頑張っていました。

それで ファーストボストン証券に入ったのですね

ファーストボストン証券は外資系のインベストバンクです。自分は日本で仕事をしたいと思ったから外資系に就職したのです。当時の日本企業では、帰国子女のような私は本社採用では「お客様」扱いで、御用なしという感じでした。皮肉ですよね。

1987年に卒業し、8月ぐらいから研修にプログラムを始めたら、10月にブラックマンデーになっちゃったんです。 そこで、会社の方針が変わり、結局ニューヨークに残 ることになってしまったんです。

その後 1 年で JPモルガンに 、その後ゴールドマン・サックスに移られていますね

実はファーストボストンに行くか、サマーインターンでお世話になったJPモルガンにするか迷っていたのですが、ファーストボストンでは日本行きがなくなったので、JPモルガンに “ Remember me ? ” と訪ねていったんです(笑) 

JPモルガンでは日本国債やデリバティブ、そして為替オプションのディーリングの仕事をしました。 ただ、90年ぐらいを節目に日本の金融機関の存在が失せ初めている同じタイミングに 存在感を増してきたのがヘッジファンドです。 94 年にはヘッジファンドに転職したいと思いましたが、そのときはタイミングが合わず、ゴールドマンサックスに採用され、国内株式・デリバティブを担当しました。

96 年に 再びニューヨークに戻り ムーア ・ キャピタルへ転職

ヘッジファンド で仕事をしてみたいという願いが 2年後に適い、ニューヨークにあるムーア ・ キャピタル ・マネジメントに移りました。そこで 1つ気がついたのはヘッジファンドというのはベンチャーであり 、中小企業であることだったのです。 比較的小さな資本、少人数で始められ、そして才能と努力が報われるのです 。 JPモルガンやゴールドマンでは体験することができなかった小さな組織に親近感を覚え ました 。判断も速いし優秀で刺激的で それなりのエッジをもった人が集まっている会社でした 。

翌年東京事務所設立の為 再び東京 事務所設立のご苦労などはありましたか

ムーア・キャピタルという看板があったので、今振り返るとたいした事はなかったですね。資金調達の苦労もなかったですし。1つあるとしたら、自分が自発的に仕事を開拓していないと 1 日何もしないで終わってしまう。それは苦労というよりは感覚の違いですね。どちらかといえば充実していた時間でした。

2001 年にシブサワ・アンド・カンパニー(株)で独立されますが、そのきっかけは

丁度 40 歳になる年でした。 40 歳のイメージがなかったのですが、人生半分終わっちゃったなぁ 何もやっていないなぁと思って、何かをしようと思いました。長男がまだ産まれたばかりだったので、家族を養う責任も重く感じる事もなかったので、独立するなら最初で最後のチャンスかなぁ、と。 もし駄目だったら「リメンバーミー」と言えばいいや(笑) という気持ちで独立しました。

今までの仕事は組織の下で楽な仕事をさせてもらっていた事を独立して初めて気が付かされました。独立する人は Nothing to lose. しがらみがないか、馬鹿者ですね(笑)

2000 年 IT バブルが崩壊して、株式市場は2〜3年ぐらい下落しましたが、ヘッジファンドの運用パフォーマンスは右上がりでした。。日本の機関投資家にもその実績に注目を集めていた。日本人でヘッジファンドに勤めていた人は少なかったですから、そのコンサルティングの仕事は出来ると思い立ち上げました。

皆が知っている看板には安心してお金を出しましたが、知らない所には出さない。これが大きな組織の現実です。自分は小さくキラリと光っているパートナーとコラボレーヨンした方が面白いと思ったのですが、こだわりというか、頑固だったんでしょうかね。(笑)

独立してから売上とご縁がなく、資本金を食いつぶし続けた2年後、お手伝いをしていたバイオベンチャーのファンドに某機関投資家が出資をしてくれました。それがなかったら2年でゲームオーバーであったかもしれません。

2008 年のリーマンショックは影響ありましたか

大きな影響がありました。シブサワ・ショックでした。 2003 年から、西海岸のヘッジファンドのファンド・オフ・ファンズの日本進出をお手伝いしていましたが、やっと軌道に乗ったのが 2007 年。年末には、結構良い気分になっていました。ところが、 2008 年の1月から運用が躓き、夏頃には、今年の運用は期待できないなァと思っていたところ、 9 月のリーマンショックです。年末には全ての機関投資家がファンドを解約してしまいました。

実は、同時に 2007 年から機関投資家向けのヘッジファンド事業とは別に、一般個人投資家向けの長期投資の投資信託の運用会社の設立を仲間たちと企画していました。毎年の決算も大切ですが、長い運用の時間軸があるファンドの必要性も痛感していました。自分自身の長期投資との出会いは、子どもたちのおかげです。

毎月、定額の積み立て投資を子ども名義の口座で始めたのです。投資とは自分だけに還元されるものではなく、他の大切な人のためでもあると思ったのです。特に美田を残したいと思ったのではないですが、子ども達が大人になったときに、彼らが産まれてきたときにからコツコツと築いた資産には、親から子へ想いのメッセージ性があると期待したのです。

ヘッジファンド事業で稼ぎながら、長期投資の投信会社を立ち上げる。 2007 年にはビューティフルなシナリオが出来ていたのですが、 2008 年には上空中に両エンジンがもぎ取られた感じでした。

コモンズ投信は 100 年に1 度と言われた金融危機の後の 2009 年1 月に運用を開始しました。ビジネスモデルを描いているときには 10 億円ぐらいでスタートんできると予想していたのですが、実際には 1.2 億円しか集まらなかった。ただ、誰も買いたくないというときは、とても安い常態なので、素晴らしい水準でスタートすることができたので、ファンド設定来の運用実績はかなり良いです。 2 年後に 17 億円になりましたので、成長率はすごいです。(笑) でも、2 年後にやっとスタートラインに立ったなぁというレベルなので、これからです。

5 年くらい築いてきたヘッジファンド事業が一夜にして崩れ去ったときに、西海岸のビジネスパートナーと丸の内の仲通りで呆然としているときです。彼は Everything happens has a reason. 全ての事には理由がある。と言っていました。

これからの為に何かの為に起こったという事です。慰めかもしれませんが、それがとても印象に残っています。

成功の秘訣を教えて頂けますか

知りたいですねぇ(笑) 

成功した時は満足した瞬間。でも、満足したら次の成功がなくなってしまって、何かを成し遂げたいというモチベーションがないといけないと思います。命は有限です。何時終わるか分からない。そのような限界をかかえている私たち一人ひとりは何が絶対的に正しいものかわかるはずない。だから、試行錯誤しながら、やり続けるのではないでしょうか。

これを知る者は これを好む者に如かず
これ好む者は これを楽しむ者 如かず

論語からの教えですが、行動を起こすときには「知る」ことは大切で大前提である。ただ、知るだけでは動かないときがある。しかし、「好き」であれば、こちらからあちらへ行きたいという動きが生じます。だから、単に知ることに留まらず、好きであることが大切だということです。ただ、好きという感情だけだと壁にぶつかった場合、挫折する可能性がありますが、心から「楽しむ」ことができれば、その壁を壁と思わず、乗り越えられるます。だから、好きであることよあり、楽しむことが何より大切であるということです。つまり、行動力の根源、原動力には楽しむ心があるのですね。

成功している人の共通点は人生をすごく楽しんでいるというオーラを感じさせられることです。

大成功したら楽しいに決まってるじゃんと思われるかもしれないが、そのような方々は、楽しむ心の DNA のスイッチが ON になっている。だから、とりあえず、動く。その 「とりあえず」が案外達成できて、実勢となります。その実績を土台として他の楽しみを求めると、それも案外できてしまう。気がつくと、自分が出来る器が少しずつ大きくなってって、良い循環になり、常に前進しているんですね。

また、知ることと好きになることは一人で出来ます。一人で勉強できますね。片思いも一人です。ただ、楽しむ事はなかなか一人では出来ない。人を呼寄せて、集める魅力があるんです。楽しむ心は「ソフトパワー」といえるでしょう。

日本資本主義の父  渋沢栄一氏の孫の孫である渋沢さんは栄一氏に何か影響を受けていますか

実は、それほど意識していませんでし。ただ、独立したタイミングの頃、栄一が残した文献などを調べてみたら、いろいろな気づきがあって面白かったのです。 「歴史は繰り返す」 ことはないと思います。ただ、時代の潮流には似たようなリズムがると思っています。だったら、 100 年前の成功者の言葉や思想を噛み砕いて広く伝える意義はあると思 って、インターネットのブログを書き始めたのです。「渋沢栄一の『論語と算盤』を今、考える」( http://blog.livedoor.jp/shibusawaken/ )。

その活動の延長に「渋沢栄一100の訓言」【日本経済新聞出版社】など、かなり部数が伸びている文庫本、その他執筆や講演活動につながっています。

渋沢栄一は“ 論語と算盤 ” つまり 道徳と経済は合致すべきと提唱しましたが、重要なポイントは、論語 “か” (OR) 算盤ではなくて、“と” (AND) なのです。つまり道徳と経済のどちらのほうが大切と言っているのではなく、持続性のために車の両輪のように、両方とも大切であるということです。

武士のような高い志で仕事をしているか?

100年、150年前に近代化していた日本の世界の信用は高くなかった。しかし、国力の根源には民間力があったと考えた栄一は、民間の信用力も高めなければならないと痛感したのです。だから、単なる「良いことをしましょう」というお説教ではなく、当時に日本のサバイバルのために、商業に携わる日本人にも義や仁という道徳観を植えつけることが不可欠と考えたのです。

ただ、これは小さな志でも良いと思います。例えば、我々現役世代が、子供や孫の世代の為に良い社会を残したいという小さな想いです。この想いが小さな行動につながり、共感によって同様の小さい想いと行動と合流すれば、いずれ大河のように国の大きな原動力となります。ポタポタ垂れている滴が寄り集まれば大河となる。これが渋沢栄一が訴えた「合本主義」の根源となる思想です。それは今でも変わっていないと信じています。

日本という国は素晴らしい国です。自国の文化を環境変化に対応しながら、後進国から先進国へという近代化をスピードアップして実施しました。現在は、高齢化社会にチャレンジしています。実は日本は世界の中で先を走っている国なんです。

日本とアメリカでの違いは何ですか

日本人は現場主義を重宝します。その職人精神は素晴らしいのですが、弱点としては現場任せになってしまって、経営力が衰弱化することです。現場のツブがそろっているので、彼らの視線で素晴らしい結果を出せるときもありますが、一方、現場の暴走などで収拾がつかない常態に陥るリスクを抱えています。その点アメリカの現場のツブは様々です。能力や仕事に対する姿勢がまだらな現場に経営はリーダーシップを発揮しなければならない。だから、経営能力が増すのです。

結果とプロセスで考えると、日本人の方がプロセスを意識すると思います。結果主義は男性的で、プロセス主義は女性的と言えると思います。男女のショッピング思考で、この違いが浮かび上がってきます。男性は直ぐに買物をゲットすることに満足感を感じる。一方、女性はいろいろと見ることに喜びを感じるパターンが多いと思います。また、日本人が儀式好きなのに対して、アメリカ人は取り合えずやろうよといった感覚を持っていますね。

それと日本人の感覚は境目がないと言えると思います。何でも組み合わせてしまう。例えばスパゲッティパンやカレーうどんという日常食。考えてみると凄いですね。全然違う物を組み合わて、それなりにおいしいものをつくりあげている。また、正月は神社、結婚は教会、お葬式はお寺という感覚も面白いですよね(笑)

自分自身の永遠のテーマは、日本人の一人ひとりはこんなに「良い人」が多いのに、組織や国という枠組み入ってしまうと世界から評価されない。それはアピールの仕方でしょうね。日本人のコミュニケーション能力に課題があると思います。

今後の日本はどうしていくべきですか

将来は占えませんが現在の延長線上ではいけませんよね。上の世代の人が極端な話パージ( purge )されないと、若い世代が活躍できる場を占領してしまいます。

最近の若者は駄目だねぇ というより出来る若者を活躍させるシステムがない。ですから出来る人は海外へ行ってしまったり、日本の社会に埋もれてしまうのでしょう。

日本社会には新陳代謝が必要です。持続性とは「人とお金を再配分」です。この再配分はまさに投資なのです。持続性ではなく、現状維持だけに注視すると「凍死」してしまう(笑)

維新来の日本の近代化の歴史には実は、それまでの常識が否定され、新しい常識が産まれるというサイクルがあります。維新の後の飛躍、終戦後の経済成長がそうです。そういう意味では、いままでの日本の常識が、良い意味で否定されないと、次の時代の繁栄が産まれてこないかもしれないということです。今は、日本の未来のために、とても重要なタイミングだと思っています。

本日はご多忙の中、貴重なお話を聞かせて頂きまして有難うございました。

インタビュー後記

日本とアメリカの両方で生活され仕事をされている立場から素晴らしいお話しを聞くことが出来ました。

終始柔和なムードでユーモア溢れるお話しをされるので、もの凄い事もとても単純に簡単に思えてしまうのが渋澤さんの不思議な魅力です。同じ1961年生まれという事もあり、色々な点で共鳴出来る事の多いお話をお伺いさせて頂きました。

幼少の頃にアメリカに渡りアメリカの教育を受け現在は日本にて起業されている。子供の頃は自分は何なのだろうというアイデンティティクライシスをずっと抱えておられたというのも興味深いお話しで、渋澤さんの優しさ、魅力の1つのように思います。

また、日本資本主義の父と呼ばれる渋澤栄一氏の孫の孫である事から、現在もその研究をされ発表されています。その一部をお聞きしましたが、これもまた興味深く面白い。元気のない今の日本は原点に戻るべき時。渋澤さんの言葉をお借りすれば今は破壊の大切な時期。グローバルな視点で個人の利益だけではなく、もっと大きな次元で物事を考え、実行されていらっしゃいます。こんな発想、考え方も素晴らしいと感じます。

成功者の共通点は人生を目茶苦茶楽しんでいるという事。 楽しむオーラを出す人は人を呼寄せ、集める魅力がある。ソフトパワーを引き寄せる何かの力がある。人生もビジネスも1人では楽しくない。成功の秘訣が隠されているマジックワードを頂いた気がします。

関連リンク

コモンズ投信(株)  http://www.commons30.jp/
シブサワ・アンド・カンパニー(株)   http://www.shibusawa-co.jp/
渋澤健ブログ
  http://alt-talk.cocolog-nifty.com/

取材・文/小坂 孝樹
 

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