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アメリカで輝いている人 VOL.79

後藤 美郎 さん ( Mr. Toshio Gotoh )
Gotoh International LLC 社長  

 
アメリカで活躍されている方々にインタビューをし、その人の活躍の場、内容、素顔を通じ
よりアメリカを知っていこうと企画された “Brilliant People” 輝いている人!

第79回目に登場いただくのは
コンサルタントの 後藤 美郎
さんです。

後藤さんはビジネスマンでもあり、音楽家でもあります。数々のビジネスフィールドで業績を伸ばし、MAJACなどの創立メンバー。JCCC (シカゴ日本商工会議所) アドバイザー、Chicago Minority Business Development Council ディレクターなどの要職に就かれ、現在はビジネスコンサルティング会社を設立。 シカゴ郊外を拠点に活動中。

−経歴−

1940年  大阪生まれ
1963年  Greenville College IL 卒業
1965年  Westminister Cheir College New Jersey B of Music  Blue Sea Line NY
1967年  パンナム入社  NY在住  
1971年  Flying Tiger Line LA在住
1974年  Pepperdine University CA MBA
1980年  Trader Pacific International Chicago
1984年  Gotoh Distribution Service
1995年  SIG Logistics Orland , FL
2003年  マイノリティ ビジネス アワード
2006年  Gotoh International LLC 設立

007年 


後藤さんはビジネスマンでもいらっしゃいますが、音楽家でもありますよね

私はちょっと普通の人とは違う人生を歩んできたんですよ(笑)

生まれが戦前なものですから、奥飛騨の平湯というところで少年期を過ごしました。静寂な世界でいろいろな音を聴いて育ちましたから、私が音楽の道に進むのは自然な流れだった。戦後大阪に戻りピアノを始めました。

小学校5年の学芸会で指揮をとった時にとても褒められたのがきっかけで音楽にのめり込み、高校の時に  Westminister 合唱団の演奏を聴いてこんな素晴らしい合唱があると感動したのがきっかけで音楽の道に進みました。1950年代の後半でした。

高校といえば面白い話がありましてね、実は私の叔父が衆議院議員だったのですが、私が中学2年生の時にあまりにも出来の悪い私を見かねて高等学校を創ってやると言い出した。それが大阪教育大学付属高校で、全国に国立の高校が出来るようになりました 。ですから私は一期生。もし私が出来の良い学生だったらこの学校は出来てなかったという事です(笑) 不思議なエポックに巻き込まれているんです。

交換留学生としてアメリカに行かれていますが

私は先生に恵まれたんですね。英語のチューターをやってくれた人の手助けでセミナーを受け、彼のいった道を辿ることになります。

音楽学校に来る前に2年間は音楽の基礎と英語を勉強してこいと言われ  Greenville College に行きました。でも2年以上はいるな あまりにも田舎だからボケるとも言われました(笑)

Greenville College というのはリベラルアーツな大学で関西学院大学の当時の総長が Greenville College の学長と同期生だった事 もあり、紹介状をもらっていきました。その後プリンストンにある Westminister Cheir College で音楽の学位を取りました。

20代のはじめにカラヤン、バーンスタイン、オーマンディ、ストコフスキーの指揮のもとに New York 、 Berlin, Philadelphia, American 交響楽団等とカーネギーやリンカーンセンターのステージにも立ちました。日本人では最初のグループだったでしょうね。アメリカの交響楽団には日本人は1人もいませんでしたから。

40人しか入れない競争率20倍から30倍の難関を勝ち抜いた。日本人では殆どの人が芸大出身者でしたが、彼らに勝ってステージに立ちました。若いうちに目標を達成してしまったから、卒業証書をもらった時は頭の中は真っ白。なにしろ音楽のことばかりでしたから それ以外の事は何も考えていなかった(笑)

経験は積んでいましたが、根無し草。日本の音楽大学に行っていたら別ですが、卒業後行く所がない(笑)

もともと音楽家のご家庭なのですか?

私の家は 450年間続いた医者の家系なんです。仙台の伊達藩に仕えていて、おじいさんが屯田兵と一緒に北海道に行きました。北海道の医師会を作った人です。

親父も大阪で医者をしています。私は長男なのに医者にもならず音楽の道に進んでしまった。

また剣道・ 居合道でも歴史のある家で私も6歳から義兄と一緒に剣道をやりました。 親父は、日本学生剣道連盟、関西学生剣道連盟の発起人の1人です 。義兄は慶応の剣道部の主将となり、 その後監督をつとめ 、個人では全日本で2度制覇しています。余談ですが、 元総理大臣の橋本竜太郎さんや、ニューヨークの老舗レストラン「日本」の倉岡さんが、身近な先輩でした。

一芸に秀でた家系なのか姉も水泳で 50,100,200mのチャンピオンになっています。

私は結局音楽を選んだ。行くところまで行ったが、卒業してひょんな事から輸入の営業マンとして Blue Sea に入社し仕事をしながら音楽も続ける事になりました。

音楽の道ではなく、ビジネス界にいかれたのですね

Blue Sea Line というのは 世界一週航路を持っている船会社です。仕事も一生懸命やりました。それと同時にブロードウエイの準主役もあたってどうしようかと迷いましたが、ビジネスの世界で頑張る事に決めました。

仕事としては充実していましたが、 1966 年に始まった Containerization に対応すべく 提案書を提出しましたが、時期尚早という事で没に。これを機にここにいても将来がないと感じてパンナムに移りました。

当時日本は貿易立国でしたから使命感を持って仕事をしました。しかしパンナムは大きな会社で上がつかえている。音楽の学位では上に上がれないと感じていました。

パンナム時代はどんな仕事をされたのですか

Gate way をコンセプトにマーケティングに注力しました。ニューヨークという市場がアジアに対する Gate Way にはなっていなかった。日米間ではマーケットシェア 50% があるのに、LA や サンフランシスコが Gate Way というのはおかしい。

そこで Gate Way としてのニューヨークにインフラを創ったらどうかという提案をしたらお前がやれと(笑)  10年間かかる所を必死にやり、13ヶ月でプロモーションを受け、課長になりました。

これが認められクリッパクラブというパンナムのパーティに呼ばれた席で重役達から次は何をすれば良いかと尋ねられ直行便を入れるように進言しました。すると何と 48時間以内に直行便が飛びました。旅客よりも先にカーゴ便が幕開けしたんです。

それによってマーケットシェアが当時 6% から 50% に拡大

ニューヨークタイムズやウォールストリートジャーナルに私の写真と電話番号をいれた全面広告を出してくれました。未だかって写真の載った全面広告は創立者とリンドバーグ(顧問)とお前だけだと言われましたよ(笑)

全面広告が引金になりパンナムを退社  Flying Tiger に移られたのですね

この広告のお陰でオリエンタルは彼に聞けという事で 17社からジョブオファーがありました。そこで私はMBAへ送ってくれとカウンターオファーを出したのです。パンナムはCOOがOKを出してくれたのですが、6ヶ月以内にリタイヤの予定だという情報を聞いたので、これは将来的にどうなるか分からない。そんな時当時まだ小さかった Flying Tiger から私のオファーを受け入れてくれて、本社の部長にしてくれるというので移りました。30歳の時です。

私は音楽の出身でビジネスの世界に入りましたから、1つの目標として 30歳で追いつこうと思っていました。その為には人様以上にやらなければならない。

日本人である事、英語がフルエントでない事などハンディキャップになる事がありましたが、ネガティブに考えるのではなく、逆にバイリンガルである、日本の良さを知っているとプラス思考でいかに前向きに良い方向に持っていくかと考えました。

ただ単に使われているだけではなく付帯価値をつける。ボスにも、チームワークにも恵まれました。結果として入社当時 1,500人の会社が10年で10倍 1万5,000人の世界一の貨物航空会社に育ちました。当時パンナムの上司だった人も その後 Flying Tiger の副社長になりました。

音楽の道に進んでいればと思う事はありませんか

パンナム時代にブロードウエイに受かっていましたが、 2頭追えないのでビジネスを選び良かったと思います。音楽はあくまでプロフェッショナルホビーです。

T Vが始まったばかりでしたし、音楽を選んでいたら違った人生だったかもしれません。またカーネギーホールで歌った経験のある人も日本にはいなかったでしょうから、日本に帰っていたら これもまた違った人生(笑)

その前に高校の時に音楽に出遭ってなかったら医者になっていたのが自然の流れです。親の大反対を押し切って飛び出したのが、この歳になって良かったのか どうかと問われれば申し訳ないという気持ちはあります。音楽でも医者でも それなりに成果を出せた自信はありますが、ビジネスの世界に進んだ事に全く後悔はありません。

20年ごとに大きなインパクト

私は 20年ごとに大きなインパクトがあるんです。出発時点で大きな障害があると言った方が良いかもしれません。海外に渡って最初の頃 1960年 当時は $200しか持ち出しが出来なかった時代です。神戸から移民船で横浜−サンペドロ−LAと渡りました。2等、3等は移民でいっぱいです。

船の上から海を眺めていると太平洋のど真ん中に何かが集まっているところがある。プラスチックのゴミの山です。 1960年代すでに公害が発生しているんです。

ロサンゼルスから学校のあるセントルイスまでは鉄道で移動しました。 9月初旬には家族から送金がある予定でしたが、第二室戸台風で奈良の実家の2階が飛んでしまった。手紙が届き お金かと思って中を見たらその状況を写した写真が入っていた。

手紙の内容は帰ってくるか 自分でやるかというものでした。ですからアルバイトをやりながら勉強ばかりです(笑) 志を持ってアメリカに来ましたから、こんな事で日本には帰れない。

こんな感じで何かをやろうと思うと頭をハンマーで殴られるような思いばかりをしています。そこから這い上がる。それが自分の人生のようです(笑)

そんな苦労の中で人の温かみを知り、恩恵も受けています。

シカゴの 2世、3世の人にはとても手助けをしてもらいました。 セントルイスの近くからシカゴにアルバイトをしによく来ましたが、留学生をとても大切にしてくれたんです。

当時日本からの留学生は年間で 4,000人しか出れなかったのです。
卒業式や結婚式など親代わりになって出席してくれたりしました。今でも付き合いがあります。

MBAは就職されたから取得されたのですよね

Flying Tiger にはMBAに行かせてもらう事を条件に入社しましが、会社でもMBAに行かせる制度がなかった。そこで会社がやった事は MBAを会社内に招聘してくれた。ボードルームが大学院 つまりクラスルームが会社の中にあったということです。私の為に25名のクラスメイトがFlying Tiger に集まる。凄い事をやってくれます(笑)

1974年当時 MBAを取っている日本人は殆どいなかった。自分でコンセプチャルする。卒業した翌日にはマネージャーからディレクターに昇進していました。マーケティングもグローバル化するにはオフィスを世界の中心に持っていかなくてはならない。

そこで World Trade Center がまだ Twin Tower になる前にニューヨークにオフィスを貰いました。その時のボスの指示は自分より1インチだけ小さい机を持てという事だけでした(笑)

大洋漁業と組んでまぐろの輸送システムを構築しました。釣った魚を 24時間以内にボストンに運び その途中に血抜きをして棺桶の中で氷に漬ける。それをドライアイスを使ったコンテナーに入れる。

いかに水が漏れないようにするかがテクノロジーです。これを開発した事でまぐろ輸送が可能となり、今のマグロブームの火付け役となったのです。

ここでは公言出来ませんが、世界の中心地 金融センターですから色々な情報を逸早くキャッチする事が出来ました。

その次のインパクトというのは

次の 20年は1980年 自分でビジネスをはじめた時です。

35歳の時にあまりにも順調に進んでいる事を危惧し 自分のキャリアプランニングを見つめなおそうと思いました。自分が40歳になったときにどうなっているのか? 50歳ではどうか? 

当時のプロトコルで トップはプライベートジェットを持ち、ペントハウスに住むといった派手な世界です。

そんな中にいて若くしてディレクターにはなりましたが、次のステップとしての VP になるには社内順番としてあと10年はかかります。5年頑張ってきて あと10年というのは自分の中では考えられなかった。

上にいけば行く程 大変になる事が分かり、 40歳で独立しようと決意したのです。

場所としては NYやLAは飽和状態 サンフランシスコでは小さすぎる そこでシカゴとなったわけです。

1976年来付き合いのあるパンナム時代のボスがその頃 中西部のトップになっていて相談しました。シカゴにハブセンターのコントロール ディストリビューションセンターを設置することになりました。

結果として貨物の流れが迅速になり、また、通関業務が早く処理出来る事となり、常駐していた税関職員が 10 人から 3 人となりました。これが税関に認められ、独立するなら特恵として 2 , 3 年かかるライセンスを 1 ヶ月で取得出来るようにすると言う。

1980年9月に独立。マーシャルフィールドやモンゴメリーワードなど大手量販店に5万〜10万着のファッション衣料を各店舗毎に直接納品するというシステムを築き順調なスタートでした。

しかし第二次オイルショックが起こり、 11月半ばから売上げがピタリと止まりました。顧客は減っていないのに、物量は1/3に激減。今の自動車産業のような感じでした。

アセットベースのインフラを 持っていたので毎月まっ赤っか

この時は自分の能力と関係のない次元で非常に悲惨な状況でした。

その逆境からどうやって持ち直したのですか

人を育て切ってはいけないと日本的感覚で血を吐く思いで 3年間頑張りましたが、借金だけが増えました。アメリカ人の投資家に相談したところ「大損するのは誰だ」と問われ、それは私だという事に気がつきました。日本的な経営はやめろとアドバイスを受け、踏ん切りがつきました。

そこでファッションの仕事を止め、 32名いた従業員を26名レイオフ 残りの6名で航空貨物にシフトしました。

ランドロードからも応援がありました。オフィスのリース料を 25%に削減してくれるというものです。丁度私のいたプロパティに10の倉庫があったのですが、殆どが家賃が払えなくなり撤退。私の所も出ようかと思っていた矢先ですが、毎月 $10,000 支払っていたものを $2,500 で良いという事になり残りました。

しかも従業員をレイオフし仕事も減りましたからスペースが余った。その余ったスペースを  $5,000 で借りてくれるというところがあったので、逆に家賃収入まで入るようになった(笑)

この時 長い時間仕事をすれば良いんじゃない 発想を変える事が大事だという事を学びました。そして自分でやったらせいぜい  300 〜 400 万ドルくらいまで、そこから先はジョイントベンチャーなど違った方法を取らなければならない事も。8社くらいからオファーを頂きましたが、88年にいすゞ自動車の商圏をもってきてくれた伊藤忠商事と手を組みました。

私は出発点が音楽だったこともあり、トップを目指そうとすると過去を破壊しないといけないという発想です。しかし伊藤忠から来られた方々はコストセンターの出身。手数料を取るというビジネススタイルから抜け出せない。ビジョンを持った人がいないサラリーマン気質ですから大きな案件があってもリスクを避ける。これでは物流をやっていてもしょうがない。1つの時代が終わったなぁと感じ 結局 2000年に売却しました。

その後 現在の会社を立ち上げられたのですね

親父が 80歳まで現役だったのでリタイヤの意識があまりないんです(笑) 余生を送るというよりは自分に与えられた人生をいかに生かすか。

日本の場合第三者の意見をタダで聞こうと思っている。ですからコンサルティングで飯を食うのは大変です(笑) 私は今のノーリッジが経営していた時にあったら違っていたと思います。失敗から学んだ事を今の事業にどう生かすか。

自分の資質を見つけて伸ばす。小さい時から人様以上の事をやる。身体を使うだけじゃなく、頭も使う。異質を求めるのではなく、自分に出来る事は何かを見出す。マーケティングの基本です。

音楽だって最初は物真似。ある時点から自分のオリジナルが生まれるのです。

今後の目標はなにかございますか

私は3つのやりたい事があります。親父からの伝統でもあるのですが、社会貢献に繋がる事をやる。親父はライ病患者の為に台湾、韓国、フィリピンなどで奉仕をしたり、大阪城のお濠のクリーニングを毎週やったりと奉仕精神をずっと見てきました。

ですから私も奉仕の精神をもって日米の橋渡し的な事をやりたいと思っています。現在病院のコストをいかに下げるかという事を考えています。病院は企業の持つ文化を持っていませんから、コストコントロールが出来ていない。サプライヤーがコントロールして受け取る側である病院がなにもしていない。ですからインベントリーにも非常に無駄があります。シカゴ大学の病院を例に取っただけでも 1,100万ドルの余剰インベントリーがあるのです。

私はディストリビューションセンターを作った今までの経験から 病院をストアーと考える発想でコンセプトを作り、シカゴ大学の 4つの病院だけでも年間1,000万ドルの経費削減が出来る提案書を纏めました。

2つ目はニューヨーク、シカゴの Gate Way を作った経験から大阪空港を伊丹と神戸空港とのコンビネーションで稼動させる。ご存知の通り大阪空港は世界で失敗した空港として有名です。民営化になってやっと気づき動き出したところです。

同様に飽和状態になっているオヘア空港もロックフォードと繋いでいこうと現在着々と進めています。

3つ目はBensenville が Chicago と仲直りした事をきっかけに再開発のお手伝いをする事です。

この不況を乗り切り為にはどうすれば良いでしょう

今の時代を打破する為には 改善、改革だけではなく改新が必要だと思っています。改善とはインフラがあって伸ばす事、改革とはインフラを壊して新しいものを作ること。

カルロス・ゴーン氏がやったのはまさに改新です。企業文化を変える。強いリーダーシップが必要です。日本のマネージメントはコンセンサス。グローバルは違います。だから改善では出来ないんです。

日本と世界との違いは何ですか

世界の人々の決断の仕方が違いますね。

シンガポールが一番早い。何故なら小さい国で資源がないから決断の基準が明確です。シンガポール人がウエルフェアをいかに挙げるかが判断基準になっている。この人達は私達の生活を良く、楽にしてくれるのか? を考えて決断するのです。資源が人のみですから、徹底した国づくりが出来る。

市民の幸福の為に外から有能な人を招く。そのかわり 3年で結果を出さなければならない。ですから日本の3倍は決断が早いですね。

日米で見ると出発点が違いますね。農耕文化と狩猟文化。日本は農耕文化ですから助け合わないと生きていけない。自然とグループとなる。逆にアメリカは個人主義。

それに人口と国土の問題もあります。アメリカは日本と比べ人口で 2倍 日本の国土はモンタナ州と同じ。モンタナと言ってもピンと来ないでしょうからカリフォルニアと同じ。アメリカ人の人口の半分がカリフォルニアにぶち込まれたらどうなります(笑)

また宗教的な違いもありますね。日本は神道、仏教など自然の中で神を見つける。周りとの調和を大切にして、生まれ変わる。それに対してアメリカはキリスト教。人生をまっとうする。生きるという事の基本的な考え方が違います。

成功の秘訣

私は成功する、金持ちになるという事を考えた事がない。各々の与えられた役割を果たそうと思っただけですからね。

強いて挙げれば自分の弱みを知り、強みを持つ事が出発じゃないでしょうか。それと前向きな思考であること。
持っている資質を最大限に活用する。そして良いリーダー、先生、同僚、部下、友人に出会う事。

ビジネス上ではビジョンとスコープがしっかりしている事が重要ですね。それが大きければ大きい程逆境に勝つ力が強い。 1% の可能性を求めて目標達成の為に我慢できる。

私は戦争経験者 何もない時代、貧しさを知っている世代です。ないものを皆でシェアして生きてきた。また張り合う、前向きに生きる、使命感があるから流されない。幸い私は音楽家として世界のトップの中にいたので、色々と吸収出来た。芸術家としての物の見方もある。ですから今は後進の育成にも力をいれています。ラフダイヤモンドを磨き、1つのものを完成させる。

価値観の持ち方も大切です。人と仕事をしている訳だから相手の人格を尊重する。儲けているから偉い、失敗したからダメじゃなくて自分がどう付き合うかです。

本日は、お忙しい中有難うございました。

インタビュー後記

後藤さんとは以前より面識はあったのですが、今回色々とお話をお聞きかせ頂き改めてその魅力に触れさせて頂きました。

500年の伝統ある名門の家柄で育ちながら、それを捨て渡米。音楽家としてもビジネスマンとしても成功され、それをおくびにも出さない。現在はコンサルタントという立場で日米の架け橋、後進の育成などに励まれる一方、縁の下の力持ちとして陰ながら日米双方の社会で数々のことを支えて頂いています。

どこに住んでも その土地に馴染めるのはアメリカ社会に入っていく事に抵抗がないから。そこで地域貢献も出来る。アメリカだけじゃなくアジアでもヨーロッパでも同じですよ。と何気なく言われた一言に後藤さんの奥深い魅力を感じます。

今回ここではご紹介出来ないような面白い話や興味深く、為になるお話もたくさんお聞きさせて頂きました。
本当に有難うございます。今後共宜しくお願いします。

関連リンク
ジャパン・インターカルチュラル・コンサルティング    www.japanintercultural.com
Franzetta & Associates   www.franzetta.com

取材・文/小坂 孝樹
 

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