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アメリカで輝いている人 VOL.66

岸岡 駿一郎 さん ( Mr. Shunichiro Kishioka )
ITA会長
 
アメリカで活躍されている方々にインタビューをし、その人の活躍の場、内容、素顔を通じ
よりアメリカを知っていこうと企画された “Brilliant People” 輝いている人!

第66回目に登場いただくのは
ITA会長 岸岡 駿一郎
さんです。

岸岡さんはITA会長、日米協会 EVP(兼執行委員会委員) 、シカゴ日本商工会議所副会頭などの要職につかれ、シカゴを中心に後進の育成にも力を注がれています。「アメリカで欲しがられる日本人 嫌がられる日本人」など著書多数。

−経歴−

1940 年 静岡県沼津市生まれ
1964 年 東京大学法学部卒
1964 年 三菱商事 入社
1969 年 渡米  対日輸入を促進、自動車部品・電気機器など業績拡大
1980 年 ITA設立 代表取締役社長 就任 

ニッケンインターナショナル(現アメリック)、ITA、InfoMotion、Buhin Corp 等11社を創業または経営支援 。
現在は IT サービス、市場調査、進出企業支援を主たる業務とする ITA 社会長など多数の企業の経営を兼務。
日米協会 EVP(兼執行委員会委員) 、シカゴ日本商工会議所副会頭、 シカゴ赤門会会長 。
著書に「アメリカで欲しがられる日本人 嫌がられる日本人」
など多数


シカゴに来られたきっかけはなんですか

当時三菱商事で製紙プラントに携わっていました。アメリカのライセンサー会社がウィスコンシンに あったので世界的技術の会社 を一度この目で見 たいと思ってアメリカに渡りました。当初 3年は覚悟しろといわれての駐在が、結局滞米 40年になってしまいました 。(笑)

驚くことに ライセンスを受ける メーカーは 7万人の大企業なのに、ライセンサーはたったの300人。サイズを追いかけていた当時の日本人としては、世界のトップになるために会社の規模など関係ないということを思い知らされて 驚き ました。

三菱商事入社の動機はなんだったのですか

私は法学部だったので法律に興味は持っていましたが、 都の無料相談所でボランティア指導をして法曹の世界も正義の使者とは限らないと知り幻滅を感じてしまいました。

同期の人達は銀行や大蔵省に進む人が多かったですが、私の親は大学教授をしていたこともあり世間に疎く、周りの人がこれからは貿易で商社だという言葉をそのまま信じて、三井が上だが三菱が伸びているらしい、そんな理由です(笑)

日本での商社時代のエピソードをお聞かせください

製紙機械の仕事を中心にやっていた頃、アメリカの業界誌に掲載されていたリースの記事を私が翻訳し顧客に紹介し、 O製紙がやってみようかと言ってくれました。会社の仕事の範囲を超えたことで、電卓のない時代に手計算で大変な苦労しました。当時 20億 今で言えば200-300億円のプラントをリースでと期待して、随分一生懸命やったんですが、 私も未経験なことなので結局フォークリフト2台 150万円の話になってしまいました 。(笑)

これがきっかけとなって米国でその経験が生かされました。建設機械の事業を立ち上げましたが、リース・パーチェスというレンタル料を購入に切り替える際は80%購入代に当てられる方式を採用したりで芽が出た。これがレンタルのニッケンの創業者に注目され、後に独立してから思いがけず組んで仕事をするキッカケになった。

今までのビジネス生活の中で印象に残る出来事はありますか?

73年の第一次オイルショック その後74-75年の不況 日本の船舶業界も大打撃を受けた時代です。そんな76年にアイオワ州に橋げたを輸出しようという話になったのですが、 外国企業は入札に参加出来出来ないという事でした。

私は州に手紙を書いてこの条項の撤廃を要求したのです。返答は公聴会をやるから趣旨を説明に来いというものでした 。鉄関連、ゼネコンなど 70名くらいのアメリカ人がいる中で日本人は私だけ。その中で私は下手な英語で主張したのですが、73年に鉄がなくて困っている時に日本はアメリカには売らず高く売れるところにプレミアム付きで売って儲けた。One way trader で輸入は制限しているのに勝手だ。など70 vs 1 で散散に言われ悔しい思いをしました。

年明けに再度公聴会があるから言いたい事があるなら来てくれという。当時家族も日本でしたからクリスマスも正月も返上して色々と調べました。調べれば調べる程 アメリカの鉄鋼会社は日本メーカーの 3倍も儲けていた。これをグラフや資料にまとめ公聴会に臨みました。

コミッショナーの中に大農場主が一人いて、自分は南米の安いビーフで苦しんでいるが、一度もこの連中に助けてもらったことはない、などという発言も出て、面白い展開になりました。 300万ドルの橋げたでワイワイ言うのだったらアイオワの農作物を日本人は買わないかもしれないと嫌味を言ってやりました。結果3対2で米国品で入札という条項はサスペンドになり、入札できることになりました。

外国人、外国の企業がなんでアイオワ州の公聴会に来ているんだ、どんな資格があるんだなどという事は誰も言わない。当時の日本ではありえない事でしたから、とても感銘を受けました。 努力した分だけ、この国は道を開けてくれることに感動しました。

起業のきっかけ 

社長候補と言われていた先輩諸氏が何人も亡くなった。産業機械にいたときの上司が 57歳の時に常務で亡くなられたのを見て、長生きするのが目標じゃないが、キチガイみたいに飛び回って仕事をしていて良いのかと疑問に思いました。

37歳の時に会社を辞めたいと意思表示をしたら「馬鹿モン!」とかなり怒られました。事業計画も作らないで辞めても成功はしない。大きなプロジェクトがあるから、それを成し遂げてから辞めてはどうかと言われ、人の金で勉強するのも悪くないと気持ちを入れ替え、5年計画を立て進めました。

3年で軌道に乗せる事が出来ました。今度は本当に辞めると当時のNYの社長 この方は後に本社の社長になりましたが、に伺いに行ったところ「入ったところから辞めるのが礼儀だろう」と言われ、一度日本に帰り辞めることになりました。

独立したばかりのころは大変だったのでは?

商社時代に培った販売網を創ることも含めたマーケッティングならある程度分かっていたので、そのノウハウを提供するだけでも商売にはなるだろうと思っていました。

実際 市場調査とマーケッティングでやろうとして始めたのですが、調査レポートを出すと、そのお客が一緒に組んで会社をやりませんかという話になってしまい断れなかった。レンタル、建機レンタル、印刷屋、玩具メーカー、工場自動化サービス会社などがどんどん飛び込んできて、2〜3社を同時に必死でやっていました。お断りした会社もありましたが。

やりだしたらそれを一生懸命やるしかない。儲けることが目的ではないから、楽をして儲けられる仕事を待つという発想はなかったですね。 やる以上は一流になろうと思えば、 どんな仕事でも大変ですから。それだったら興味があるか意義のあることをやりたい。もっとも、儲からないと長続きはしませんから、利益をだす努力は必要ですが(笑)

そんなことで人の会社のサポートをしたり、アウトサイドコンサルをしたり、中に入って役員になったりと気がつけば 7〜8社 会社を創っていました。

独立してから一番ご苦労されたビジネスはなんですか?

レンタルのニッケンと組んで始めた日用品を貸すサービス、リテールへ進出した時でしょうね。 会社も JVでやったのだから店もJVでやろうという事になったのですが、消費者向けのサービス業は大変だった。

私の方からはテレビ、ビデオなどでいいんじゃないかと事業計画を出したんですが、本社は言う事を聞かない。トラベルスーツケースとかぶら下がり健康機、カキ氷の機械など日本でうまくいっているような商品をどんどん持ち込んでくる。 私も一寸自信がなくて受けた。 1年間おいていても1回も動かないものが80% 

これじゃうまくいくわけがない。結局 10ヶ月で止めました。本当に 《骨折り損のくたびれ儲け》 な1年だった(笑)

他にも失敗したことはいっぱいあります。日本でプロであってもアメリカではプロではない。市場が変わると全く違う。プロといっても鵜呑みにしちゃいけません。 調べてみなくては。

サラリーマン時代と起業されてからの違いはなんですか

一番の違いはお金と人ですね。自分以外いないわけだから大変です(笑) 

それと大企業にいたときと比べれば人材が違う。 優秀な人材がいたとしてもお金が払えないから確保は難しい。それに気づくまでに時間がかかりましたね。

お金は何とかなる部分はありますが、人は難しいですね。面白くて、魅力的で将来性のある会社でないと人は集まらない。そういう会社にしていかなければならない。

しかし商社時代だったら親が死んでも帰れないが、小さな会社なら子供が病気でも帰れる。そんな良いところもたくさんあります(笑)

独立当初から現在のITAだったのですか

設立当初は International Trade All という社名で始めたのですが、単純な名の方が発音しやすいという顧客のアドバイスを受けて ITAとしました。

液晶を勧めて大当たりした印刷会社の顧客に、10年くらい経って今度はホログラムを勧めて、機械を日本に輸出しました。ところがメッキの技術は東京では使用許可がおりないと分った。特殊技術を紹介した立場上、 ITAがシカゴでやって製品を出荷して下さいということになりました。これは数年間やって、今は顧客のタイ工場に移設しましたが。

ミクロンの単位ですから品質管理が非常に大変。また貸しラボ(研究室)などはありませんから、 2万スクエアフィートとの事務所も買う羽目になり、半分は貸事務所にする貸しビル業も経験しました。これはわが社には合わない事業なので止めましたけど(笑)

そんなある時社員の 1人がシカゴは寒いのでアリゾナへ行くと言って出て行ってしまった。月に1冊か2冊のレポートをFAXで送らせていましたが、専用回線でも時間がかかり過ぎる。その彼がインターネットで送れば地域内の電話料金で送れるというんですよ。

初めて聞いた時はなんのことだか分からないし、通信回線などは専門家のやることだと思っていましたが、全然違いました。情報伝達は早いし、記録も残る。94年イリノイ大学のアンドリーセンがパソコンとインターネットを結んでくれて、 50代に入って初めてパソコンを使うようになり、パーっと世界が開けた気がした(笑) 

パソコンがもっと小さく、安くなるんだったら弱いものが勝つ時代になるんじゃないかと直感しました。そこで技術者をどんどん採用しましたが、みなオタク族ですからどんどん辞めていく(笑)  1社のことしか知らないと専門バカになってしまうので新しい技術を得るために違うところへ行ってしまうんです。

どうせやるなら人より上でやりたいと常に思っています。 4人兄弟で育ったせいか、誰かに取られて食べられてしまうといった危機感、ハングリー精神があるんでしょうね。何かで一生懸命やることが苦になりません。(笑)

創業・立上げ・経営に関与した会社は 11社とお聞きしておりますが、どのような企業を立ち上げられたのですか

ニッケンインターナショナル(現アメリック)、ITA、InfoMotion、Buhin Corp などは創業。明治コーポレーション、玩具のニッコー・インナターショナル、化粧箱の印刷のカルテックは日本企業が米国に進出し創業したものですが、これらのスタートから経営の支援をしました。

商社時代に自分が立ち上げた事業部で別会社になったものが2社、支援したものが1社ありますから現在までに 創業・立上げ・経営に関与した会社は11社 になります。

レンタルのニッケンもその1つです。三菱商事を辞めてすぐ、岸社長が一緒にやろうとわざわざ飛んできてくれたのです。

当時のニッケンはまだ 80億くらいの中小企業でしたからお金がない。アメリカに進出したという記事を書いてもらおうと思っても予算が厳しい。それだったら何か面白いことをやってタダで記事にしてもらおうという事で、ちょうど5月の男の子の節句の時期だったこともあり逆立ち鯉のぼりの吹流しを立てた(笑)

これが奇抜で面白いアイディアということで地元の両毛新聞の記事になった。はじめから日経や読売に持って行っても弾かれるだけだが、1つの新聞に掲載されると他でも取り上げてくれる。

サラリーマンだったら採算が合わないのでやめてしまうことでも、いろいろなことをタダで終わらせないでアイディアを出し、なんとかものにしようとするという気概を学びました。

岸社長とはやり方の違いなどでもの凄く衝突もしましたが、相手の言うことも一理あるとお互いが一目をおいていたし、なにかと馬があったんですね。中小企業のオヤジが日本でサバイブするならこういう考え方でなと教わりました(笑)

著書にもありますが、 米国市場における新規事業の成功・失敗の分かれ目 について教えてください 

失敗しないためには、大きなことは見逃さずカバーする。1つ1つやることはきっちり潰していく。アメリカの市場に合わせる。安全確認、合法的に全てをやる。基礎的部分では価格の整備、契約書をしっかり作る。ルールを自分なりにしっかり作り、商品をバックアップするサービス体制を作る。 やるべき事をやらないと長続きはしません。成功はこうすればという魔法はない。他社を何らかの形で差をつけて、より顧客に喜ばれるようにするですか、、

熱意を持って商品を推してくれるか。競争相手との 差別化できる違いがあるか。 最後まで一生懸命やる。失敗しないように踏ん張る。誠意も持って解決するか、すぐに尻尾を巻いて逃げるかどうかをアメリカ人は良く観ていますからね。

何冊も著書がありますが、現在また新しい本をお書きだと聞きました。

今回の本は男性に向けて書いています。日本人は世界の中、中国やインドのような競争力のある人達が集まる中でやっていけるのか? ハングリー世代 vs 飽食の時代 アメリカで強引に道を切り開いてきた経験を役立てたいと思って書いていているのですが、ちょっと乱暴な書き方をしたせいか、もう少し分かりやすく書けなど色々な注文を受けて書き直しているところです(笑)

本を書くのは いつの時代でも同じですが、若い人を元気付けること、新しい道を拓いて欲しいと期待しています。

プライベートな時間はどのようにお過ごしですか

本を読んでいるのが好きですね。夏はゴルフ いつまでも上達しないからみんなに喜ばれていますよ(笑) 
それと若い人達と飲みに行っておしゃべりするのも好きですね。

成功の秘訣を教えてください

どこまで何をするかわからないし、人によって違うことだから一概には言えませんが、ロッキー青木さんには NJの 自宅も見せてもらいましたが 、彼のように全米に 70店舗のレストランを展開し、株式も公開した。これは世間では1つの成功でしょう。 これとは全く違った友人を知っておりますが、この人は恐らくシカゴ地区では一番の金持ちですが、誰にも語らないから知られていない人もいます。 アメリカでビジネスをするならアメリカ人からお金を取るようなビジネスを考えた方が遥かに大きい。市場は日本人をターゲットにするより 15倍大きい事が狙える。

レンタルのニッケンの岸さんは 87-88年の頃 600億円の売上げで、レンタルの業界では世界1だったのですが、飯田橋の公営住宅の2ベッドルームに住み本に取り囲まれて、FAXを入れ、ガンガン仕事をしていた(笑)

ベニスに家族旅行に行ったときも嫁と息子は観光に出し、自分は朝からパジャマ姿のまま 『今日は本を 2冊読んだ』 といって自慢している。これは成功?

人が決めた成功の為ではなく、『俺にとっての成功はこれだ』 と決めて一生懸命生きるのが良いんじゃないでしょうか。数や金額を成功と思えばそれを目標にすれば良い。 でも周りに仲間が残っていないのは淋しいという人もある。

なにかでしくじった時 それから逃げるか逃げないか 正直言えば逃げたいけど相手に迷惑がかかる。自分なりに出来ることを誠心誠意やる。 私の会社は息子が何とか継いでくれているので、周りに何人かの人たちが、何かでビジネスを始めて、成功してくれれば良いと思っています 。

アメリカのお薦めスポットをご紹介ください

Busse wood は自然があって良いですねぇ 
歩いても綺麗だし、冬も樹氷やダイヤモンドダストも見られて素晴らしいですよ。

本日はご多忙の中、貴重なお話を聞かせて頂きまして有難うございました。


インタビュー後記

岸岡さんのお話を聞いていると話が尽きない。時間を忘れて聞き入ってしまう。日米協会の理事や商工会議所の副会頭など本業以外のところでもご活躍、後進の育成に力を注がれています。アメリカで頑張られている方からのお話しは本当に刺激になります。独立起業した先輩としても、色々と教えて頂く事があり、とても楽しい時間を過ごす事が出来ました。

現在書かれている本にも大変興味があります。
ハングリー世代 vs 飽食の時代 まさに自分達の事を言われているようです。

また、アメリカで活躍されている日本人として、とても日本のことを憂いていらっしゃったことも印象的です。
年金、国防、食生活、少子化、健康・病院の問題など これで大丈夫なのかと。

中央でものが決められなくなっているのに、地方への権限委譲もない。 楽しく生き生きとした生活をするためにはどうすれば良いか。これらのことは日本だけではなく、日米両方に伝えていかなければいけないとおっしゃっていました。

本日はご多忙中お時間を頂き有難うございました。

関連リンク

ITA   http://www.itaoffice.com
シカゴ日米協会  http://www.jaschicago.org
シカゴ日本商工会議所  http://www.jccc-chi.org/

取材・文/小坂 孝樹
 

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