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アメリカで輝いている人 VOL.117

吉田 礼三 さん (Mr. Reizo Yoshida)
国際社会活動家


アメリカで活躍されている方々にインタビューをし、その人の活躍の場、内容、素顔を通じ
よりアメリカを知っていこうと企画された “Brilliant People” 輝いている人!

第117 回目に登場いただくのは
国際社会活動家の  吉田礼三 さんです。

吉田さんは60才を過ぎてからアメリカに移住され、ダイレクト・マーケティング業界の先駆者として DMA より銀賞を受賞。ユニセフのアドバイザーとして1億ドルの募金を集めるなど国際貢献の高い活動をされています。

近年では日野原博士と協力し、ジョン万次郎ゆかりの家を購入し記念館として修復することに貢献し街に寄贈。その縁もあり、日本の小中学校を回ってジョン万次郎の勇気と努力について課外授業を行ったり、各地での講演会で講師として活動をしておられます。

−経歴−

1927年 鹿児島市生まれ 幼、少年時代を熊本、福岡、大阪、沖縄、中国上海などで過ごす
1944年 陸軍予科士官学校に入校(60期)
1945年 航空仕官学校に進学
1945年 満州(中国東北部)に移動の為、舞鶴港より出航直後、乗船が米軍の機雷に触れて座礁、退避
1945年 終戦により復員、10月に旧制第五高等学校文科に転入学
1951年 慶応義塾大学経済学部卒
      ファースト ナショナル シテイバンク オブ ニューヨーク(現在のシテイバンク)に入社
1957年 広島化成株式会社に入社。輸出及び化成品担当取締役を経て1966年に退社。
1966年 神戸市に、日本で最初の輸入通信販売会社(株)サンレイ・インターナショナルを設立
1986年 代表取締役を退任
1986年 シカゴ市にUSY Consulting Inc.を設立
1991年 米国商務省に協力して、アメリカのダイレクト・マーケテイング業界より、最初の訪日ミッションをコーデイネート
      その後、多くのアメリカの企業にアドバイスし、日本の消費者への個人輸出促進に尽力した。

1992年 国際連合児童基金ユニセフ本部のコンサルタントに指名され、主として日本での募金活動に従事
1993年 Direct Marketing Association (DMA)より、全世界から応募した2000社のから選ばれ我が国初の銀賞を受賞
1998年 米国郵政公社より、永年の国際郵便事業と対日通販ビジネス発展への貢献に対し感謝状を授与
1998年 日本へのダイレクトメールによるユニセフへの募金額が一億ドルに達し、国際連合より表彰される
2002年 シカゴ市より、ニュージャージー州に移転
2003年 ABPSに入会
2005年 ニューヨークでの日野原重明博士の初めての講演会を企画運営
2006年 韓国ソウル市での日野原重明博士の初めての講演会を企画運営
2007年 中浜万次郎ゆかりの家を日野原博士と協力して購入、修復してフェアへブンの町に寄贈するプロジェクトに参加2009年 修復完成した記念館「Whitfield-Manjiro Friendship Society」の名誉理事に選任され2012年末に辞任
2007年-2009年 太平洋戦争で戦死された日本軍将兵の御遺骨や遺品による御遺族の調査のため、九州各地を3度訪問
      核廃絶の為の国際的な市民活動提唱の為に、広島平和記念資料館及び(財)広島平和文化センターを4度訪問
2009年 日米の小中学校で課外授業として、ジョン万次郎やオバマ大統領の紹介ほか、国際教育活動を開始




ジョン万次郎の生涯を伝える活動を始めるきっかけは何ですか

太平洋の孤島でジョン万次郎を救った上、約7年間住まわせてくれたホイットフィールド船長の家が倒れそうになって売りに出ていたのを知りました。

そのことを聖路加国際病院の理事長日野原先生に知らせ、家の購入費 5,000 万円のうち私が25万ドル、博士が20万ドル支払って 200711月に持ち主であった ダニエル・グリーン氏より購入しました。

その後、博士が日本で募金活動を開始し募金は順調に集まり修復が開始されました

20095
 万次郎の直系4代目の中濱博さんの生前の言葉に従い、ホイットフィールド・万次郎友好記念館として町に寄贈しました。合意文章にサインをした56日は万次郎が初めてアメリカ本土に足を踏み入れた日でもあります。

どのような活動をされているのですか

ご存知の通り1841年ジョン万次郎は14歳でアメリカに渡り、22歳で日本に戻りました。その語学力だけでなく自らの経験を活かし、ペリー提督との仲介をやり開国に貢献したことは周知の事実です。

しかし地元の土佐に行っても、万次郎を知っている子供達は5人に1人くらい。もっと万次郎を知ってもらいたい、アメリカに興味を持ってもらいたいとの想いから、丁度万次郎がアメリカで過ごした世代の子供達である 小・中学校を訪問し話をしています。

今では沖縄から東北まで32校で講演をしています。

日野原先生との出会い、またエピソードなどがあればご紹介ください

陸士の先輩で戦後伊藤忠商事の会長であった瀬島隆三氏から日野原先生を紹介され、日野原先生の国外での活動をお手伝いするようになり Associate に指名され、協力を始めました。

エピソードは上述の通り、ジョン万次郎を助け住まわせてくれたホイットフィールド船長の家が老朽化して売りに出されたことを日野原先生に知らせ、記念館として修復することに貢献したことです。

戦争時代 数々の思い出があると思いますが、一番記憶に残っているものは何ですか

戦争中での一番深刻な思い出は、少年時代に中国上海で過ごした通算で約3年間の生活の間に目にした、日本軍と日本人の中国人に対する蔑視とも言うべき差別です。

戦場下の上海は酷かったですね。私達日本人には日本人学校がありましたし、キリスト教学校はありましたが、中国人向けの学校は1つもありませんでした。

ゴミ箱の横には、食べ物がなくて餓死した赤ん坊の死骸がゴロゴロ捨てられていました。

2番目は、終戦直後の1945820日頃、原子爆弾投下直後の広島を歩いて通過したことです。

人間の死体はありませんでしたが、馬の骨は至るところに転がっていました。当時物を馬車で運んでいたので、その時の馬がたくさん死んだのです。戦争が生んだ悲惨な時代です。

最近 “永遠のゼロ” という小説を読んだのですが、吉田さんも航空仕官学校に進学されたという事は特攻に行く可能性があったのですか

日本の空は完全にアメリカに占領されていました。もし日本で訓練をしようとしても、すぐにグラマンが飛んできて撃ち落されてしまいます。ですから特攻の訓練も日本では出来ないので、満州(中国東北部)などに行くしかなかったのです。

私も 満州に移動の為、舞鶴港より出航したのですが、出航直後に乗船が米軍の機雷に触れて座礁してしまい、日本に戻りました。

当時 海にもアメリカ軍が大量の機雷をばら撒いていて、それに接触したのです。もしそのまま満州に渡っていたら、私も特攻として命を落としていたと思います。

やはり戦争という異常環境の中では、個人の意思を貫き通すことは出来ないのですか

個人の自由意志なんてありませんでしたね。今の北朝鮮と一緒です。やれと言われれば オーと声を出して進むしかない。個人の意思なんて全くないです。

心の中では 天皇の為に死ねるか ということも考えたりもしましたが、声に出して言う事などは絶対に出来ません。命が惜しいと思うことだけで卑怯者ですから。

昭和20320日 赤く染まる東京の空を眺めながら、仲間が暗い顔をしていました。戦争には負けるのだろうと薄々感じてはいても、決して口に出す事は出来ません。

アメリカに来るきっかけは何ですか

私の父は技師として台湾、上海など海外生活が長い人でしたので、自然と海外指向が強くなっていました。

最初に勤めたシティバンクは香港上海銀行と並び戦前から日本に支店を置く米系唯一の銀行です。当時外国為替業務は大手町にあったシティバンクだけがやっていました。私はアメリカをもっと知りたい、インターナショナルな仕事をしたいと思い、大学を卒業するとシティバンクに就職しました。

アメリカに来るきっかけは、1ドル360円でしたので衣料品はじめ多くの日本製品がアメリカに大量に輸出され始めました。それに関連したビジネスに従事するためでした。

日本で最初の輸入通信販売会社を何故起業しようと思ったのですか

1965年に輸出ブームで日本が豊かになり、国民が欧米製品に憧れるようになった事と、アメリカに何度も出張して、当時アメリカの最大の小売業者であったシアスローバック社やシュピーゲル社などがオーダーブックでの通信販売を主体としている事を知ったからです。

国際連合児童基金ユニセフ本部のコンサルタントとしての活動の中で特に印象に残っているものは何ですか 

終戦後、日本は食糧難のため多くの子供たちが栄養失調になっていた頃、ユニセフがアメリカから大量の脱脂粉乳を運全国の小学校で生徒たちに与えた事を大人になっていた日本人が憶えていたことそれに恩返しをするためにとユニセフのアフリカなどの子供たちに対する募金に予想以上に協力してくれたことです。

近年では東北を1週間かけて回りました。ハイチにも行きました。20万人の人が亡くなりました。

家を無くし、両親を失った子供達が街に溢れかえっていました。自衛隊に護衛されながら回ったのですが、“One Dollar ” と言って寄ってくる子供達は、お菓子をあげると奪い合いです。悲惨な状況でした。

ニュージャージー州に移られたのは何故ですか? また、シカゴとの違いは何でしょうか

当時、顧問として、ニューヨークのユニセフ本部に、シカゴから1週間か10日間毎に出張していましたが 9.11のテロ事件のため、ニューヨーク行きの航空機への搭乗の際のセキュリテイ検査が大変厳しく、そのため、荷物だけが搭乗より前の便で運ばれるような事がたびたび起きて大変困ったからです。

シカゴとニューヨークの違いは、シカゴの人たちが、シカゴこそアメリカの中心だというプライドを持っていて、アメリカ人としてのプライドの低いニューヨーカーを蔑視していた事です。

日本とアメリカ、日本人とアメリカ人のビジネスの違いは何ですか

日本人とアメリカ人のビジネスの違いは、風土と体質の違いによる消費動向が違うことです。

それに日本はあまりにも狭い。生活圏はアメリカの 1/50 ですよ。太平洋戦争を始めた理由もが狭いから満州を開拓し生活圏を広げようとしたからです。

現代の日本で狭い道を広げようと思っても、住民の反対にあい出来ない。原子力発電でも廃棄物を捨てる場所がない。街づくりも、地震や自然の災害によって100年程度で潰れてしまうような街しか創らない。

今後は生活圏を外国に求めていかないとならないと思います。シンガポールにはお金のある日本の老人が溢れています。ブラジルの日系人老人ハウスも、実に環境の良いところに良い設備でつくられています。このことは国をあげてやるべき事だと感じています。

ご自身の人生を振り返り、ターニングポイントはどこだったと思われますか

自分の人生のターニングポイントは何度もあります。

最初のターニングポイントは、職業軍人になるための陸軍士官学校から、突然の敗戦により卒業前の退学となった時です。

その次は、1957年にビジネスのため、アメリカ各地を2ヶ月で視察して回った時です。

いままでの人生の中で一番大変だったこと、悩んだ事は何ですか

今までの人生で大変だったことや悩んだことは何度もありますが、それと同じほど嬉しく楽しかったこともあります。

アメリカに来て日本食レストランをやったこともありましたが、慣れない仕事ですから2年で締めました。3,000万円くらい損しましたね。

輸入販売も当るも八卦、当らぬも八卦です(笑) しかし人間というのは不思議なもので、あの時失敗して辛かったなぁとは思わないんですよ。そんな事を考えていたら、未来が広がらないですからね。

それをどうやって乗り越えてこられましたか

苦しかった時は、大波でおぼれそうになった時のように、夢中で全力で泳ぎました。

気がついたら乗り越えられていました。

一番嬉しかったこと、感動したことは何ですか

一番嬉しかったことは、1967年に独立して、日本で最初の輸入通信販売会社を設立し、年後に初めてのプロジェクトが成功したことです。

その後、アメリカに移って、ユニセフ本部のアドバイサーとなり、アメリカからの安いバルクメールを利用して日本国民にダイレクトメール募金活動を行った結果、約3年間で約11億ドルの寄付金を集めました。

そのため、日本国民からの募金が世界の第14位から第1位に飛躍し、その功績に対し、ユニセフ本部から表彰された事も、わが人生における大きな喜びでした。

成功の秘訣は何でしょうか

成功の秘訣は、第二次世界大戦開始の前から約30年間、欧米の生活用品を自由に入手できなかった日本国民のニーズにマッチしたからだと思います。

趣味、プライベートでは、どのような過ごし方をされていますか

少年時代は将棋、青年時代は囲碁、短いサラリーマン時代は麻雀、と一環して勝負事が仕事以外の楽しみでした。趣味は歴史的な価値のある書画骨董の蒐集です。

今後の活動についてお聞かせください

日本からアメリカへの最初の留学生となったジョン万次郎の勇気と努力について、一人でも多くの日本の青少年に伝えることが86歳の私の残された人生の仕事であり、しみですので、是非ご協力ください。


本日はご多忙の中、貴重なお話を聞かせて頂きまして有難うございました。


インタビュー後記

吉田さんは大学の大先輩でもあり、シカゴでも大変お世話になりました。

最近までホイットフィールド・万次郎友好協会の名誉理事でもあった吉田さんは、小学生を中心に講演活動を続けられ、万次郎の生涯を通してアメリカを知ってもらう機会を作られています。

売却の危機となったホイットフィールドの家を救おうとダニエル・グリーンさんが動いた2006年時には、ニューヨークを中心とした北米進出の日本企業からの募金は僅か5万ドルしか集まらず頓挫。それを吉田さんが中心となり成功させている。

86歳となられた今でもバイタリティがあり、その活動力には頭が下がります。

貴重な戦争体験も色々とお聞かせ頂きました。ここでは書けないようなこともたくさんあり、戦争というあってはならない過去についても改めて考えさせられましたし、歴史をきっちりと理解しないといけないとも思いました。

今回もまた素晴らしい人のお話をお伺いすることが出来ました。 有難うございました


インタビュー・構成/小坂 孝樹

 

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