演歌歌手になろうと決意された、きっかけは何ですか?
僕はおばあちゃん子で家に遊びに行くといつも演歌が流れていました。それを覚えて自然と歌う。それが演歌との出会いで、その魅力に惹かれていきました。
15 歳の時に日本で開催された海外高校生による日本語スピーチコンテストで初めて日本に来ました。その時は 2 週間だけだったんです。
その後 関西外語大学に留学生として来た時は4ヶ月滞在しましたので、友達も沢山出来て、色々と学び、見聞きする事が出来ましたし、随分日本の事を知ることが出来ました。
この時に日本で暮らす事が出来ると初めて思ったのですが、もう一度戻ってみないと分からないから 卒業したら必ずもう一度日本に戻って来よう、そして演歌をやろうと思いました。
アメリカに住んでいた少年が夢叶って演歌歌手になったわけですが、思い描いていた夢と実際に演歌歌手になった時の
ギャップなどはありますか?
ありますね。演歌歌手になってヒットが出るまではだいぶ時間がかかるとか、 5 年 10 年演歌歌手でいてもヒットがなかなか出ないという話を良く聞いていました。デビューをしてもそれは覚悟していたのですが、デビュー曲で一気に沢山の方々に名前や曲を覚えて頂いて、それが全く思っていた事と正反対でした。
デビュー曲も宇崎竜童さん、作詞は秋元康さんに書いてもらうなど素晴らしい曲を頂きました。演歌界の期待もあったと思いますが、その時はそれ程 事務所の方とかレコード会社の人達も頼むぞみたいな感じでもなかったですし、デビューの準備とか凄く楽しくって全くプレッシャーは感じていませんでした。
でもデビュー前にもジェロが出ますという報道があってから 一気に忙しくなって、ほんと何がなんだか訳が分からなくなってしまいました(笑)
演歌の世界はトラディッショナルで厳しい世界だと思います。大御所からヒップホップ系のファッションなどについて厳しい批判を受けたりはしませんでしたか?
全然ないですね。かえって受け入れて頂いています。
高校生の時から帽子が好きで集めていましたし、今も外出する時などは ヒップホップ系のファッションです。演歌歌手になっても自分らしくいたい。日本で生まれたわけでもないし、演歌だから着物という感覚はあまりないですね。きものを着ても似合わないですし(笑)
やっぱり自分らしく アメリカ人らしく演歌を歌いたいという気持ちがありました。
それもあってヒップホップ系のファッションで演歌を歌わせてもらっています。
演歌の魅力は何ですか?
日本語が分からない時から聴いて 魂の歌だと感じていました。演歌歌手の人達が心から歌っている姿をみて、歌詞が分からないのに感動していました。歌詞が分かる今は歌詞が魅力的だと思います。それぞれの歌手の表現の仕方で感じ方、伝わり方が変わる。こんなことは他のジャンルにはないと思います。
演歌歌手の中では誰が一番好きですか?
一番最初に聞いていた演歌は美空ひばりさんの “ 越後獅子の唄 ” ですから思い出深いですね。歌手として一番好きなのは坂本冬美さんと五木ひろしさんです。ずっと尊敬しています。
日本に来た頃 恥ずかしながら 1 人でカラオケに行ってました。その時に録音したテープなどをピッツバーグのお母さんのところに送ったのですが、お母さんの好きだった千昌男さんの “ 津軽平野 ” は褒められました(笑)
お母さんは 13 歳になるまで日本で育ちました。日本が大好きだった母は、日本から愛されることはなかった。でもそんな話しは一切しないで僕の事を大事に育ててくれました。そんな母に感謝する気持ちを伝えたいと作曲をお願いしたのが “ 晴れ舞台 ” です。
自分の曲の中では “ 晴れ舞台 ” が大好きです。お母さんのために 自分から言い出して創って頂いた曲なので、思い入れが深いですし、歌う時に泣くのを堪えるのがやっとです。
今回は JCCC (シカゴ日本商工会議所)の新年会でのコンサートでシカゴにお越し頂きましたが、以前にもシカゴに来られた事はありますか
最初は皆さんご存知の駅前留学ノバの面接を受けるために、車で 10 時間くらいかけてシカゴに来ました(笑)
これが初めてシカゴに来た時です。ノバは潰れちゃいましたけど、日本に行くきっかけをくれて感謝しています。
今回は 2 度めのシカゴですが、皆様の前で歌わせて頂ける機会をもらい とても嬉しいです。アメリカで歌う機会はなかなかないですからね。
2008 年のデビュー曲 “ 海雪 ” がヒットして、母校のピッツバーグ大学でコンサートをされたと時は如何でしたか
卒業生が日本で成功したと聞いて500 名も人が集まってくれ、とても喜んでくれました。
歌ったのは全て演歌です。大学の生徒や日本に興味のある卒業生達がたくさん観に来てくれました。歌詞の意味が分からなくても 非常に聞き心地が良いという言葉を頂きました。
学校の先生や生徒達とも久しぶりに会えて 「頑張った甲斐があったね」 と凄く喜んでくれたり、褒めてくれました。とても素晴らしいコンサートでした。
昨年は米国のカリフォルニア大学バークレー校から「バークレー日本ニュー・ビジョン賞」を
授与されましたが、
1 年を振り返り如何でしたか
デビューして もうすぐ4 年になりますが、本当にアッという間 演歌歌手になって毎年毎年色々な勉強、経験をさせてもらっています。ブロードウェイミュージカル “Blues in the night” を天王洲銀河劇場を皮切りに、全国4カ所を回って上演させて頂きました。ミュージカルも初めてだったので、とっても楽しかった。またやりたいなと思っています。
アーティストとしてどんどん成長して沢山のいい歌をお届けしたいと思います。これからも新たな挑戦をやっていきます。
今回は東日本大震災の復興支援も兼ねての来米とお聞きしましたが、震災でジェロさんも何かが変わりましたか
震災当日は新木場で撮影をしていました。ビルの 1 階からすぐに外に出ましたが、凄い揺れで立っていられなかったのを今でも覚えています。部屋はグチャグチャだったけど、まだ住む所がある。被災地と比べようがない。何かしないといけないと感じました。
震災後 1 ヶ月後くらいに津波のダメージを自分の目で見て、今までにない経験、衝撃を受けました。あんな大きなことがあったのに、被災地の方々の前向きな姿勢を拝見し逆にこちらが元気とパワーを頂いた。歌の力の凄さも改めて感じました。
東日本大震災の復興支援のため NBC ニュースにも出演されたのですよね
TV で東日本大震災のニュースを観た時に何とかしたいなとずっと思っていました 。朝が大変苦手なのですが、早朝 4 時に起きてスタジオに行きました。ニュース番組に出させてもらうような機会はなかなかないですから、 TV を通じて復興支援のお願いをしました。
自分としても色々と考え、お金だけではない部分で何が出来るのか? 演歌歌手として歌を届ける事で皆さんに少しでも元気になって頂いて、前向きな気持ちで生きて欲しいと思っています。
日本語がとてもお上手ですが、お母さんとの会話は日本語だったのですか?
おばあちゃんとお母さんは日本語で会話していましたが、僕に対してはずっと英語だったですね。怒られる時だけは日本語でしたけど(笑) それ以外は英語でした。触っちゃいけないものを触ったり、騒ぎすぎたり、そういう事で怒られましたが 怖かったですね。
どうやって勉強したのですか?
子供の頃に自分なりに少し勉強をしましたが、本格的にやったのはアメリカの高校での授業と大学で勉強をしました。自分自身日本語に興味があったので、自分で勉強したり、お母さんやおばあちゃんの話を聞いたりして、そんな環境がありましたから自分にとってはラッキーだと思います。
それとやっぱり演歌もありましたし、日本に来た時は日本語をしゃべらなければいけない状況だったので、その環境にいる事で一番身につきました。
日本語が分かったとしても演歌の歌詞は難しいと思いますが、その辺のご苦労はありますか
たまに分からない言葉や意味が分からないフレーズなどはありますね。そんな時は演歌好きの友達、ディレクターや先生に直接聞いています。やっぱり分からないと歌えないですから。
歌っている時は歌詞の意味を考えているのですか それとも自分の人生や経験を考えていますか
曲によりますね。歌詞を大切にしながら歌う事が大事ですから、毎回毎回その時の気持ちであるとか、 その時思い浮かんだイメージとか 聴いて頂いている方々にその感じが伝わるように歌っています。
色々とご苦労があると思いますが、どうやって苦労を乗り越えているのですか
自分を信じて、自分は出来ると思って、そういう気持ちを忘れずに頑張るしかないと思っています。やるだけやって、自分はこれだけ精一杯やりましたという事が言えるくらいやって、それでも結局駄目だったら、それはそれでいいのじゃないかと思います。
2008 年の紅白歌合戦に出場されましたが、その時はどんな想いでしたか
デビューの年にデビュー曲で紅白歌合戦に出られるのが、あまり例のないことのようで有難い事ですし、僕にとっては一生忘れられない出来事です。僕のステージを客席でお母さんが観ていてくれました。残念ながら子供の頃からずっと一緒に観てきた紅白歌合戦に連れて行きたいなと思って いたおばあちゃんは 2005 年に亡くなってしまったので、せめてもの思いからおばあちゃんの顔をブラッシングしてもらった衣装を着て出場しました。
成功の秘訣は何でしょう
それは分からないですね。
カラオケ大会などに出場したり、プロになるために頑張っていたけど、なかなか陽の目を見る事がありませんでした。もう少しやって駄目だったらアメリカに帰ろうと思っていた時に最愛のおばあちゃんが亡くなりました。その年 2005 年に坂本冬美さん主催のカラオケ大会で優勝したことがきっかけとなり、オーディションを受け合格。 2008 年に “ 海雪 ” でデビューしました。
頑張っていても成功しない時もあるし、でも今回デビューが決まってトントン拍子みたいな 凄くスムーズに物事が進みました。滅多にないケースだという事も分かってますし、有難い事です。そう考えると運だと思いますね。完全に運が良かったですね。
夢はなんですか?
僕の夢は演歌歌手になることでしたから、それは現実になり叶いました。これからもずっと演歌歌手としてやっていきたいと思っています。もしお金儲けの出来るアイディアがあれば是非僕のところに来て話してもらいたいですね(笑)
今後は演歌以外にも歌ってみたいジャンルはありますか
企画ではあります。例えばカバーアルバムで R&B の特集ですとか、コンサートで何曲か英語の歌を歌ったりはしています。基本的には演歌歌手として歌っていきたいと思っています。
最後に今後の展望をお聞かせください
もっと若い世代に演歌を伝えていきたいですね。難しいと思いますが、出来るだけ演歌のファンを増やしていくことが大切だと思います。カバー曲をちょっとアレンジするなどして聴いてもらえるようにしたり、新しい刺激を与えることが大切だと思います。
今までやっていなかったことをやってみる。ジェロがこんな事も出来る、こんな事をしていると知ってもらって、観てもらう。演歌はポップスと違って紅白くらいしか TV で知ってもらえる機会がないので、コンサートなどに来て貰うようにしたいです。
それとアーティストとしての成長の他にも、ミュージカルや俳優など新しいフィールドも挑戦してみたいですね。
本日はご多忙の中、貴重なお話を聞かせて頂きまして有難うございました。
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